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たかきろぐ

「自動運転」「情報系大学」「雑記」をだらだらと書いています

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自己啓発系言葉遊び

世の中のものは表現の仕方が全てだと思う.

つまり,客観的に捉えることができる事実を,自分がどう捉えるか.その捉え方で世の中の見え方が変わってくると思う.

今日はちょっと哲学的な話題.

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ワエはあまり自己啓発系の本や格言は好きじゃない.あんなものは言葉遊びでしかないと思っている.今日はちょっと自己啓発に関して. 

 

先日親しい女性と話していると

「何かをする時に要領よく,適当に行うことができない.賢い人は力を抜くところをわかっている」

と言っていた.それに対して

「何かをする時に要領よく行う人は.力を入れるところをわかっている」

のじゃないの?と問うと,「そっか」 と少しうなだれていた.

 

彼女の言いたいことはわかるし,力の及ばないところがあることを恥ずかしく思っているということは伝わる.

 

しかし,別に彼女がうなだれたところは言葉遊びの部分でしかなく,どうでも良いと思うのだ.

 

なぜどうでも良いかを説明するために,彼女が上記の発言をした時の思考プロセスを考えてみた.

 

  1. 客観的な事実の発生
    まず,推測するに客観的な事実は以下のようなものだろう
      ● タスクにXを要した
      ● タスクの結果がYであった
    例えば文書を作る場合Xは時間でYはページ数や文字数,プログラムならYはステップ数などになるだろう.
    おそらく客観的に観測可能な「こと」はこんなもんである.
    これ以下は「1時間で5枚分のドキュメントを作成した」という例を使う.

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  2. 事実に対する認識
    ここから人によって分岐が生じる.単純なタスクに対しては以下のような反応があると思う.(クリエイティブは別かもしれんが)
      ● 何も考えない
      ● 満足(生産性高いと感じる)
      ● 不満足(生産性低いと感じる)

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  3. 認識に基づく解釈
    2の認識に対して,各々が出す解釈がある.ここが言葉遊びの部分である.例えば認識に対する解釈は以下のようになるだろう.

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自己啓発系の書籍なんかは,この解釈の部分をいかにもキラキラしていてポジティブな文言に変える(認識の部分を変えようと説くものもあるのだが...).

例えば,不満足の人物の解釈を「力を入れるべきところがわからない」に変えるのだ.

ただし,変えたからといって次にとる行動に変化があるだろうか?

つまり,ワエはこういう時に認識の部分が一番大事なのだと考えている.認識に対する解釈の違いはあれ,このケースにおいて「次の効率を上げる」という行動をとることには代わりがないからだ.

 

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啓発系の本でよくある解釈の変え方は,「次の行動」に非依存だとワエは考える.あくまで認識が重要である.

 

 

 

 

さて,今回はこんなことを書いたが,本当に大切なのは客観的事実に対して他者がどのような評価を下すかである.自分の考えは(自分の美学は置いといて)ビジネス的には重要でない.基本的に相手ありきなのだ.

 

 

で,他者の仕事を見る時にたちが悪いのは認識において「何も考えない」ということである.自分もその状態になっていることがある.そもそも,客観的な事実は意識していなければ得ることができない(Yページだけなら得ることができるが).そうすると基本的には「何も考えない」のパスを通ってしまう.

満足している人も厄介かもしれないが,成果に対する考えを持っているので,その考えが間違っていれば「正す」ことができる.

 

 

自分のした仕事に満足しない,するな,というわけではないが,常に自分の仕事を客観視してそれに対する感想を持っていたいものである.